きっかけ
泡沫の唄  二




 委員会で始めて長次と顔を合わせたときの印象は“何考えてるのかよくわからなくて怖い先輩”だった。
 無口で、無愛想。おまけに顔に傷があって、時折1人笑い出す。物怖じしない性格のきり丸でもあまり関わりたくないと思ってしまったほどで、そんなきり丸の長次への認識が変化する切っ掛けとなったのは、初めて2人で夜の当番に当たった夜のことだった。




「…ふあ、っと」
 込み上げてきた欠伸を咄嗟に片手で抑えたきり丸は、奥で作業している長次にちらりと視線を移す。長次はきり丸に構うことなく黙々と自分の仕事をこなしていた。
 どうやら欠伸を咎められることはなさそうだ。そのことにほっとしていると、再び欠伸をしそうになり、きり丸はそれを噛み殺す。
(ここんとこのバイトはちょっと無茶だったかなあ)
 委員会の活動で時間を割かれてしまう分、早朝のアルバイトや内職を増やしていたのだが、それによって睡眠時間が削られ、きり丸はここ最近慢性的に睡眠不足だった。
(乱太郎達も心配しだしたし、どうにかしたいけど…こればっかはどうしようもないよな)
 乱太郎達に心配を掛けるのは心苦しいが、アルバイトを辞めるという選択はない。
(委員会終わったら今夜はとりあえず寝て明日…いや、納期を考えると今夜中にきりのいいところまでやっといたほうが…)
 ぼんやりと考えながらも委員会の仕事をこなしていると、作業を妨害するように睡魔の波が襲ってくる。うつら、と船を漕いでははっと目を醒まして…と繰り返しているうちに、きり丸の意識は完全に睡魔に飲み込まれてしまった。




「…あれ?」
 目を醒ますとそこは見慣れた忍たま長屋の天井だった。確か委員会活動で図書室にいたはずだったのに、ときり丸は首を傾げた。
「あ、きり丸おはよう」
「しんべーとらんたろー…?」
 はい、と乱太郎が何かを手渡そうとして、きり丸は反射的に手を出した。するとちゃりん、と音を立てて小銭が掌に落とされる。
「こ、こじぇに…!って、え? どうしたんだよ?」
「今日きりちゃんが行くはずだった朝の新聞配達のお代」
「ぼくたちでがんばったんだよー。もう、ぼくお腹減っちゃったー」
「へ? いや、うえ?」
 渡された小銭をしっかりと握り締めながらもまだまだ状況が飲み込めないきり丸の様子に、乱太郎としんべヱはくすくすと笑みを零す。
「あのね、きりちゃん昨日委員会の途中で寝ちゃったの、覚えてる?」
「…あー、委員会の途中から覚えてねえな」
「それでね、中在家先輩がきり丸連れてきてくれたんだよ」
「疲れてるみたいだった、って。それでしんべヱと相談して私たちが朝のバイトを代わってその分寝かしてあげようってことになったの」
 少しは休めた?そう尋ねてくる2人にきり丸はおう、と小さく返す。すると2人は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
(ああ、なんでこいつらは、こんなに)
 握り締めたままの小銭に体温が移ったのか、小銭が何故か熱く感じた。きり丸はぎゅっともっと強く小銭を握り締める。
「…、ありがとな!」
「どういたしましてー。でも、きり丸、今度は無茶する前にぼくたちに言ってよ?」
「きりちゃんは変なところで遠慮だもの」
「ぼくたちも庄左ヱ門や金吾も、は組のみんなが心配してたんだからねー」
「悪かったって! 次は気をつけるよ!」
「素直でよろしい。あ、あと中在家先輩にもちゃんとお礼言っときなよ?」
「おう、」




 お礼を言う。そう乱太郎達に約束したものの、六年生の実習や自身のアルバイトの都合などが重なり、きり丸はなかなか長次に会うことが出来なかった。やるべきことをやらずにしておくのは、なんだか借りを作ったままにしているようで落ち着かない。
(あ、)
 廊下の向こうに探していた長次の姿が見えた。ようやく礼を伝える機会が巡ってきたが、もうすぐ授業が始まってしまう。
 また今度ということにして授業に向かうべきか、しかし次の機会がいつ来るのかわからない。
(ええい、なるようになれ!)
 きり丸は葛藤の末、長次を呼び止め、その背中に向かって走り出す。勢い余ったきり丸は長次の足に抱きつくような形になってしまった。
「きり丸…?」
 あまり表情を変えない長次の前が驚きに丸くなっている。きり丸は慌てて一歩離れた。
「あ、えっと、すみません。先輩が行ってしまうと焦って…つい」
 きり丸はそのまま勢いよく頭を下げて、ずっと溜め込んでいたものを吐き出すように一気に声に言葉にする。
「あの、こないだの委員会の時は眠ってしまってすみません! 長屋まで送って貰って…次から気をつけます!」
 礼を言う予定だったが、気が付けば謝罪になってしまっていた。委員会の途中で眠って仕事を放棄してしまったのだ、謝罪の方が正しいだろう。そんなことを考えていたきり丸の頭を長次がぽんぽんと優しく撫でた。
 驚いて、思わず顔を上げた。
「先輩…?」
「あまり、無理をしないように」
「は、はい」
「あと、」
「あと?」
「静かに出来るものなら、委員会活動の空き時間にやっても構わない」
「それって内職とかしていいってことっすか?」
「ああ、私も空いている時間は好きな本を読んでいる。空いている時間をどう使うかは、きり丸の自由だ」
 そう言って長次は怒ったときによく見せる不気味な笑みではなく、やわらかく微笑んだ。初めて見たやさしい笑み。きり丸はぽかんとただただその笑みを見てしまう。
 そうして固まったままでいたきり丸に長次がどうかしたのかと言いたげに首を傾げる。はっと我に返ったきり丸は慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! じゃあ僕はこれで! また委員会の時に!」
 長次の返事も聞かないままにきり丸は教室に向かって駆け出した。
(先輩、あんなふうに笑うんだ)
 自分だけの宝物を見つけた幼子のように弾む心。落ち着かない鼓動。何も考えないようにしてきり丸はひたすらに教室に向かって足を動かす。


(何考えてるのかよくわからないけど、ホントは優しい先輩)


 きり丸の中の長次へ印象が変わったときだった。





  




2010/08/24




 長次はちゃんと(?)ぼそぼそ喋っております;