恋には錠前も勝てない






(白、あの人のいる街に降る雪の色)
(赤、あの人の燃えるような瞳の色)
(黒、あの人の艶やかな髪の色)

 研究に忙しいジュードだが、日常の中のちょっとしたことで彼の人を思い浮かべてしまう。彼の人のことを考え出してしまうと、他のことなど手につかない程だ。
「…ああ、もう」
 彼の人――ガイアスと交わした約束の為にも早く研究の成果を出さなければならないと言うのに、心が言うことを聞かない。
 こんなふうに激しい感情は初めてだった。かつてミラに抱いた強い憧れに似ていたが、何かが違っていた。
 いつの間にか火照っていた頬を冷ますように両手で挟んで、ほう、とジュードは吐息を零した。
 ――この感情に付けられる名をジュードはまだ知らない。


* * *


 シルフモドキが届けてくれた手紙にローエンが久しぶりにイル・ファンにやってくる旨が書かれていた。時間があるなら特製のブレンドティーをご馳走させて下さい、と締められた手紙を読んで、ジュードは嬉しくなって「よろこんで」と呟いて微笑んだ。
 ジュードがローエンと会うのは実に久々だった。お互いに多忙な上、イル・ファンとカン・バルクと離れているため、中々会う機会がないのだ。
 ローエン、カン・バルク、当然の流れのようにジュードはガイアスを連想する。
「…ガイアスにも会ってないなぁ」
 無理をしていないだろうか、体に気を使っているだろうか。心配だな、とそう思う。けれど、それ以上に強い想いがあった。
「会いたい、な」
 吐露するようなその呟き。ジュードは自室で周りに誰もいないことを頭の片隅では理解していながら、思わず部屋の中を見渡してしまう。その際に視界に入った小さな鏡には顔を真っ赤に染めた自身が映っている。
 顔が赤くなっているのを自覚してしまうと、恥ずかしさに余計熱が上がっていく。気が付けば耳まで真っ赤にしてしまっていた。いつものように両手で冷まそうにも、それでは全く追いつかず、ジュードは広げていた手紙を端に避けてテーブルに片頬を押しつける。
「こんなことじゃ、ガイアスに合わす顔がない…」
 少し想っただけでこれほどに赤面してしまっていて、実際に会ったらどうなってしまうのか。想像するだけで頭の中が沸騰して、爆発してしまいそうだ。
「ああ、でも、会いたい」
 出来ることならあの瞳を見て言葉を交わしたい。叶わないなら、せめて一目その姿を見たい。とにかく会いたかった。
 しかしその前にこの複雑怪奇な症状をどうにかしなくてはならない。いったいどうすればいいのか皆目見当も付かないジュードは途方に暮れるしかなかった。


* * *


 そうこうしているうちにローエンがイル・ファンへとやって来た。忙しい仕事の間をぬってジュードの自室兼研究室に訪れたローエンをジュードは笑顔で出迎えた。
「ローエン!忙しいのにこっちまで来て貰ってごめん。あと、部屋も散らかってて…」
 資料やら報告書やら出来うる限り整理しているのだがいかんせん量が多く、特別広いわけではない部屋は本や紙に占拠されており、見る者に散らかっている印象を与える。そんな状態の部屋にローエンを呼ぶ形になってしまい、根が真面目なジュードは申し訳ない気持ちで一杯だった。
「これは全てジュードさんが研究を頑張っている、その結果でしょう。何も恥じることはありません。――まあ、物事には限度がありますからね、レイアさんあたりに怒られない程度の掃除は必要でしょうが」
「ローエン、ありがとう」
「いえいえ。さて、じじい特製のブレンドティーでもまず淹れますかな」
 そうしてローエンの淹れてくれたブレンドティーは暫く他のお茶が飲めなくなりそうなほど美味しかった。
 研究のこと、世界の情勢のこと、何気ない日常のこと、久しく会ってなかったこともあり話題は尽きない。
「しかしジュードさんが元気そうで何よりです。最近、特に忙しいみたいでしたから」
「あー、確かにスケジュールきつかったかも」
 講演やら研究成果の発表やら何かとやることが多く、忙しかった。ジュードはここ最近のあれこれを思い出しながら頷く。
「若いからといってあまり無理をしてはいけませんぞ。ガイアスさんもジュードさんのことを気に掛けておられましたよ」
「え、ガイアスが?」
「ええ。」
 ガイアスが自分のことを気に掛けてくれた、そのことが何故だかとても嬉しかった。嬉しくて緩みそうになる口元を誤魔化すように掌で覆う。そんなジュードの様子にローエンは不思議そうに首を傾げた。
「ジュードさん?」
「あ、うん。ごめん、なんでもない!えっと、その…ガイアスも元気?」
「それはもう。ああ、でも」
 一旦間をおいてからローエンは内緒話をするように声をひそめて言葉を続ける。
「最近結婚の勧めが多くてうんざりされているようです。眉間にこんな深い皺まで作って」
 茶目っ気たっぷりに話すローエンに笑って「ガイアスも大変だね」と返せばいいだけだと理解しているのに、出来なかった。
 喉に何か詰まったみたいに息苦しくて、胸が痛くて、どうすれば笑えるのかわからない。小さい頃はそれこそ怪我をして血を流そうと笑っていられたのに、笑い方が思い出せない。
 このまま黙っていてはローエンにいらぬ心配を掛けてしまう。笑え、笑え、笑え! ジュードは自分に何度も言い聞かせた。
「そうなんだ」
 そう告げるのが精一杯で、その時の自分がちゃんと笑えていたのかジュードに確かめる術はなかった。
 それから時間になってローエンが帰るのを見送って自室に戻るまで、どんな会話をしたのかまったく記憶になかった。ただぐるぐると一つの単語が何度も壊れたスピーカーのように繰り返されていた。
 ジュードは自室のドアを閉めるとそのドアに背中を預け、ずるずると床に座り込んだ。
「けっこん」
 当然じゃないか、頭の中でジュードの常識がそう言った。ガイアスは王だ、いつか結婚し世継ぎを成すのも王の義務ではないか。
「…わかってる」
 なら、どうしてこんなにも苦しい。
「わかってる、のに」
 王としての義務ではなく、愛した女性と結婚することだってあるのだろう。ガイアスが愛す人ならば、きっと素晴らしい人なのだろう、そう思った。
「……、だ」
 きっとガイアスを敬愛する全ての民がそれを祝うだろう。理解している。している、はずだった。
 ――嫌だ、嫌だ、嫌だ!!
「っ、」
 身を裂く悲鳴のような叫びに、ジュードの琥珀の瞳から一粒涙がこぼれた。それをきっかけにはらはらと涙が溢れ出す。
 そうして、ようやくジュードは自分の中で悲鳴を上げているものの名前を知った。想うだけで頬を赤く染めさせたのも、会いたいと願わせたのも、こうして今叫んでいるのも、全て全てこの『恋心』なのだと。
 嗚呼、なんて不毛な想いだろう。
「ひっ、う、」
 次々にこぼれる嗚咽を必死に噛み殺して、自覚したことで更に増す痛みに耐える。
「がい、あ、す…っ」
 貴方が好きです。好きになってしまってごめんなさい。でも、好きなんです。ごめんなさい。ごめんなさい。
 告白と謝罪を何度も何度も意識を失うまでジュードはただ繰り返した。


* * *


 それからのジュードはとにかく研究に打ち込んだ。朝から夜まで食事をする時間も惜しんで研究に明け暮れ、夜も意識を失うまで資料を読み耽った。ただ、ガイアスへの恋心を思い出さない為に。
 一緒に研究に取り組んでいる研究者仲間や訪ねてきたかつての仲間達はそんなジュードを心配し、休むよう促したがジュードは決して頷かなかった。
 足取りはふらふらとして覚束ず、元々白い顔色は白を通り越して青く、目の下にはうっすらと隈が浮かび、柔らかな黒髪は艶を失っている。
 ジュードが重い体を引きずるようにして部屋に戻ると窓の桟にシルフモドキがやって来ていた。手紙を受け取るといつもならば仲間からそれぞれ一通ずつある封筒が一つしかない。
「誰だろ…?」
 珍しいと思ったもののここ最近の無理が響き、今すぐにでも眠ってしまいそうだったジュードは手紙を読むのは明日にすることにして、いつものように資料を抱えてベッドに横になった。眠りはすぐにやってきた。


* * *


 優しく髪を梳かれる。あたたかくて、大きな掌。目の下の隈をなぞるように撫でられてジュードは目を開ける。
「…すまん、起こしたか?」
「がいあす?」
 夢を、見ているのだ。ジュードはそう思った。カン・バルクにいるガイアスがイル・ファンにいるはずがないのだから。
 また優しく髪を梳かれて、その心地よさに再び夢も見ない眠りの底に意識が落ちていきそうになったが、ジュードはそれを振り切って、髪を撫でていたガイアスの手を取った。剣を振るう硬い手。小さくも柔らかくもない、それでもジュードが何より欲しかった手はこれだった。
 すき、こいしい、いとしい、あいしてる――今まで抑圧してきた想いの丈をジュードは夢の中だけ、と自身に言い訳して、吐き出してしまおうと思った。
「ガイアス、ガイアス」
「どうした?」
「結婚しないで」
 ガイアスが驚いたように瞬く。ジュードはそれに構わず言葉を続ける。
「わかってるんだ。本当は結婚して、世継ぎを成さなくちゃいけないって、もしかしたらガイアスが結婚したいと思うほど素敵な女性がいるかもしれないって、でも、嫌なんだ。僕が、ガイアスのこと、好きだから」
「ジュード…。俺は、結婚などせぬ」
 夢だとわかっていても、その一言が嬉しかった。
「ホント?」
「俺は嘘は好かん」
 ジュードが掴んでいない方の手が頬を撫で、ガイアスの端正な顔が近くなる。夜の帳の中にあってもガイアスの瞳は光を失うことはない。美しい、の一言に尽きる瞳を間近で見られるなど、なんと幸福なことだろうか。
「ああ、良い夢だなぁ」
 思わずこぼれたジュードのこの台詞にガイアスの動きがぴたりと止まった。
「夢、だと?」
「え?うん、夢でしょ?」
 こて、と幼い仕草で首を傾げたジュードの頬をガイアスは無言で抓る。
「いひゃい!へ!?いひゃいってひゅめひゃ…!」
「これでもまだ夢と言うか」
 容赦なく抓られた頬は痛かった。
「お前の様子を見に行くとローエンに頼み、シルフモドキに手紙を渡しておいたはずだが」
 明日で良いとそのままにしてしまった手紙を思い出す。読んでなかったとは言い出し難かった。
 それよりも自分は夢だと思ってなんてことを言ってしまったのだと、それこそ夢の中に現実逃避したい程だ。しかしガイアスがそれを許してくれるとは露ほども思わない。ジュードは覚悟を決めて、体を起こし、まっすぐにガイアスの瞳を見た。
「あの…ごめ、」
「ジュード」
 ジュードの謝罪はガイアスによって遮られた。
「今言おうとしている謝罪は何のものだ?ずっと夢だと思っていたことか、結婚するなと言ったことか、好いていると言ったことか。それならば、謝ることはない」
「え?」
「あえて言うならば自分の限界も弁えず無理を重ねたことだ。ジュード、お前が倒れたら、俺との約束を違えることになるのだぞ」
「あ、以後、気を付けます。でも、」
「ジュード」
 ガイアスの腕がジュードの腰を引き寄せ、逃げ出さないようにもう一方の腕を背中に回す。吐息が掛かるほどに近い距離に目眩がしそうだ。
「愛している」
「うそ、だ」
「俺は嘘は好かんと言っただろうが」
「でも、でも」
「確かに俺は王だ。それを俺が選んだ。だから、いくら愛する者といっても俺はジュード、おまえより民を第一に考える」
 信念を掲げ、真摯に王で在らんとするガイアスの言葉。ジュードが恋したのはそういう男だ。やっぱりこの人が好きだと、そう思い知らされる。
「だったら、やっぱり…」
「しかし結婚はせんぞ。後継者などふさわしい者が継げば良い。俺の子か否か、大事なのはそれではない。信念と力だ」
「でもっ」
「くどい。本心は偽らず欲してみろ。全てはやれんが、望むならお前を想うこの心はお前だけのものだ。ジュード、お前は欲しくないのか?」
 なんて甘美な誘惑だろうか。恋い焦がれる者にそう問われ、いらないと言える者などいるものか。
「っ、!」
 声が震えて、うまく言葉にならない。ガイアスはそんなジュードを宥めるようにその薄い背中を柔らかく叩く。促されるようにジュードはたどたどしく、しかし懸命に想いを伝える。
「あ、貴方が、欲しい、です。好き、好きで、自分じゃどうしようもなくて、だから、僕の心を全部、みんな、ガイアスにあげるから、貴方の心を下さい」
 ジュードの言葉にガイアスが優しく微笑んだ。しかし赤い瞳の奥は獣のようにギラギラと熱を孕んでいる。
「ああ、全てお前のものだ。ジュード」
 その言葉とともに口付けが落とされた。性急な口付けに翻弄されそうになりながら、ジュードはもっと、と強請るようにガイアスの首に両手を回す。そうして更に激しさを増す口付けにジュードは身を委ねた。






Love laughs at locksmiths.







 
 パソコンを整理していたら↑のガイジュアンソロ様に寄稿させて頂いたものを見つけたので再録してみました(*´ω`*)




2014/05/09